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「本来の自分」など いない

たとえば、康太は小さな頃から「自分」を出す子ではなかった。
「あれがやりたい、これがほしい」などとは一切言わず、与えられることに満足する子だ。
「サッカーやるか?」「え~、何それ?」
「ソフトボールやるか?」「え~、それって、面白い?」
何にしても引っ込み思案。やらせて見るとどれも面白がったのだが。
高校進学も「近所で、勉強はする。卓球もする」ことだけに納得し、莵道だけを受験した。
そして高2の頃までは、
「将来にやりたい仕事はないし、行きたい大学も、“これを勉強する”も、ないな」
などと言っていた。
勉強したくないわけでも、働きたくないわけでもない。
何でもいい。自分が進んでいくところに“それ”があるのなら、“それをやる”というわけだ。
それは私に似ている。私も若い頃は特にやりたい仕事などなかった・・・というか、
どういう仕事があるのかも知らなかった。
土木なら土木の仕事を、教育なら教育を、真面目に、懸命にやる。
「自分が何に向いているのか」なんて考えたこともなかった。

そのことについて、僧侶で作家の玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう)さんが朝日新聞に書いている。
『世の中のいろいろな職業を経験してみると、どんな仕事を目指すにしても、
 最初から「私」に合った仕事だけを自分で決めて探すというのはもったいない。
 もともと「本来の自分」などはなく、「私」が放りこまれた現場の中で、
 そこに対応する自分が顔を出してくるわけです。どんな可能性があるか自分でも分かりません』

本当にそうだと思う。「なりたい自分」になって、ずっとそれを続ける人はまれで、
それが出来た人はすでに人から「名人」などと呼ばれているはずだ。

『若いうちは見聞きしている世界が少ないのですから、別な人や知らないことに向き合った時には
 ファジーな対応が正解だと思います。でも最近では、若いほどはっきり自分をアピールしがちだし、
 分かりやすい夢や目標を掲げるべきだと追い込まれている。
 とりあえず自分のキャラを立てることにエネルギーを使う様子は、
 本来若い人には不似合いで可愛そうな状況です。
 通信機器が発達して、メールなどで来る日も来る日も「自分はこういう人間なんだ」と 
 輪郭を確認するのは、実は辛いことです。あいまいな「私」ではなく、
 はっきりとした「本来の私」にならなければと焦るから息苦しくなる。
 そんな必要は全くなく、今ある自分は十分に私らしいと思っていいのです』

・・・素晴らしく納得・・・
「特に何者でもない自分」でも、「そういう自分」をしっかりと持って、
目の前に現れてくる現場に懸命に対応できれば、それだけで素晴らしい人生だと思う。
私は自分が「何者でもない」ことを知っているし、そうやって生き続けている。
康太も真子も「たまたま現れた現場」が受験であり、
「どこ行くん?へ~、がんばったらそこへ行けるん?ちょっとがんばるわ」
みたいなノリで、がんばってはいる。何とも幸せなことだ。

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