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「しあはせ」の語源

今回真子達中2に出した国語の宿題は、平成18年・京教大附属高校の国語。
1問目が狂言の「仏師」を見た話。2問目は「老写真家」の話。
3問目が古文の「宇治物語」。どれもすごく面白い。
「仏師」は都の詐欺師が、仏師を探して都に来る田舎者をからかうと言う笑い話。
詐欺師が田舎者に出会うと、恩着せがましく「そなたはしあはせのよいお方じゃ」と語りかける。
作者は言う。
「“しあはせを直す”とか“しあはせがよい”という言い方を私達はしない。
 “しあわせである”“しあわせでない”という。この差異はどこから来たのか。
 “しあわせ”は古くは“仕合はせ”と書いた。“仕合はす”
 つまり“物と物とをきちんとそろえる”を意味する動詞が名詞化したものである。
 “仕合はせ”は“出会うべきものを出会わしめる”他動詞的な働きかけの結果を言ったのである。
 一方に仏師を探す者がおり、他方にカモを探す詐欺師がいて、求める者同士が
 はかったように遭遇した事態をして素っ破(すっぱ・詐欺師)は“しあはせ”と称したのである。
 古語“しあはせ”に含まれていて、現代語“しあわせ”から失われた語義があるとすれば、
 それは“しあはせ”が前提としたこの手間暇である」

お、面白い・・・面白くないですか?こういう文章を問題にするのですよ。
「“しあはせ”は“仕合はす”行為の結果であり、それに至るまでの“手間”と“暇”、
 すなわち“努力”と“時間”を介在させてかたちをとるという考え方をかつての日本人はした。
 現代人の“幸せ”は、当人の働きかけとかかわりなしに、不意に到来するものである。
 だから、“幸せ”は来た時と同じように不意に立ち去る。
 “仕合はす”という能動性が関与することを知らない人間は“仕合はせが悪い”状態が
 自分の責任であるとは考えない。それは私でない誰かの責任なのだ。
 若者達が乱用する「うざい」とか「きもい」とか「むかつく」といった言葉は
 外部から飛来してきて、不意に私達に取り憑く心的状態を指示している。たぶん、
 その心的状態の生成に本人は関与していないと思っているからである」

幸せになるのも、不幸になるのも自分次第。本当にそうだ。
私立大の結果発表が始まっており、立命館大あたりは基本的に合格している。行かないけれど。
高校受験でも「競争率14倍」を、マナはものともしなかった。でも、行かない。
ただ一人「本命の京教大附属高校」を受けていたメイミも、当たり前のように合格。
どの子も「仕合はせて」いたからだ。
大学受験も高校受験も出来る限り「仕合はせて」はいたが、1人くらい失敗があるやもしれぬ。
そうなったら胸が張り裂けるくらいに、一緒に悲しんでやるさ。でも、そうはならないよ。

しかしこの文章、妙になじみがある。強烈に若者批判があるとこなんか・・・
作者は・・・(内田 樹「こころの森」より)・・・やっぱりね!

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