FC2ブログ

教育観

私の教育観はどのように移り変わり、出来あがって行ったのだろうか?
出来あがると言うよりも、どんどん削られて行って、ほんの少し残ったように感じる。
学生時代に遠山啓とシュタイナーに出会い、感動し、ものすごく多くの物を
「教育観」として持っていたように思う。生徒と共に学んだ25年間は、それらを検証し、
「これは違う・・これはいらない・・これでもない」と削り取って行った年月であった。
そこに残ったものはいくつもない。
そのひとつは「どうやればこの子は懸命に生きるのか」という教育観だ。
教育とは「技術の切り売り」ではない。単に「サポートする」ことでもない。
「わからせる」ものでもなく、もちろん「どこかへ入学させる」ことでもない。
その子に「懸命に生きる」ことを理解させることが教育の目標の一つだ。
それは時代の流れの中で、今や忘れ去られようとしている。

世の中は異常な速さで便利になって行った。便利さが良くなると、人は工夫をしなくてもいい。
「懸命に何かをする」ことをしなくても生きていけるかのような錯覚におちいってしまう。
勉強にしても「いかにスマートに、短時間で点数を取れるか」を求めてしまう。
すると、教育を「商品」とする人も出て来るし、いつの間にかそういう売買が教育と思われてもいる。
カッコいい言葉と、派手な色と柄で飾り付けられた「教育商品」は巷に溢れている。
「よくもそんな“嘘っぱち”を売っていられるな」と思う者は私と横山だけなのだろうか?

教育や学びは贅沢品ではない。とても安く、誰にでも出来るものだ。
その学びの中で「懸命さ」をつかみ取ってもらわねばならない。
懸命に向き合えば物事のからくりも見えるし、面白さもよくわかる。
懸命に生きれば、世の中は面白いことが多く、大金がなくても十分生きて行ける。
今朝も早くから教室にやって来て、懸命に学ぶ生徒達の、なんて楽しそうなことだろう。
25年の間に「アホが行く塾」から「出来る生徒が行く塾」と風評が変わったらしい。
風評の、なんていい加減なことか。うちの生徒は今も昔も懸命さを学ぶばかりだ。
イツローとトモヒサが「高校のどの先生も、この教室のことを知っている」と言う。
そうか・・・高校の教師にもうちの生徒は可愛がってもらえるが、
それは点数が取れる・取れないの評価ではないはずだ。
「懸命な姿勢」を評価してもらっているはずだと思っている。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

河原

Author:河原
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR