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学びの時期と強度 ②

ファインマンは「物理現象を知る上で、数学力は極めて重要」と言う。
アインシュタインは数学がそれほど得意ではなく、数学者に協力してもらっていた。
数学を知らなくても考察は出来るのだろうが、知っている方がより深く考察できる。
確かにアメリカの高校生がやる数学は日本の中学生がやる程度のものだが、
「だから日本の高校生もその程度でいい」とはならない。
どの教科であれ、その「理解力」が一定域を越えてないと「基礎教養」にはならない。
だから若いうちに一定域まで引き上げてやった方がいいのだが、それには明らかに段階がある。
小学生の時期はやがて使用する道具や工具の名称と、使用方法を丸暗記する時期だ。
分数の割り算がなぜ分子と分母をひっくり返してかけるのかなど、本当にはわかるはずもない。
「そういうものだ」とやらせておき、その検証は先でやればいい。
「金づちって、何に使うん?」
「木の部分を握って、この金属で釘の平たいとこを打って突き刺すんだ」
「金属を握って、木で打ったらあかんの?」「やってみ・・・」「打てへんなあ・・・」
公式暗記の中で、そういうやり取りをたくさんやっておくことだけが重要で、
釘を上手に打てることに越したことはないが、うまく打てなくてもまあ、問題はない。
ところが塾は「釘をうまく打って有名中学・高校へ入り、東大・京大へ行こう」とやってしまった。
釘を打つのも一つの能力だが、将来素晴らしい家や構造物が作れるのとはほとんど関係はない。
将来犬を飼うことになって犬小屋を作るときに役に立つ「かもしれない」と言う程度だ。
基礎教養とはそういうものなのに、分数がすごく出来たからって京大進学とは無関係なのに、
「それが出来ないと進学は出来ない」とたきつけてしまった。
小学生の受験秀才のほとんどが後に姿を消してしまうことは誰でも知っているはずなのに、
なぜか市民はそれを忘れ、塾の「商売戦術」に飲み込まれてしまった。
「○○中学から××高校へ行き、東大の法科を出て、官僚になるのが夢です」
私が大学生の頃にそう言う小学生を見て、ぞっとしたものだ。
小学生に世の中の仕組みや、その中での官僚の仕事などわかるはずもなく、
「ブランド名」だけをほしがり、勉強など「そのための手段」にさせてしまったのだ。
明らかに方向性を間違っている。
ちょっと冷静になればそれがどれほど薄っぺらなものかわかりそうなものなのに、
なぜだか世間は全部、その方向へ走ってしまった。

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